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2006年4月20日(木)

文教科学委員会
「学校教育法等改正案」について (参考人質疑)

  • すべての参考人から、特別支援学校、特別支援教育いずれも、教員の定数配置と専門性を高める研修の必要性が訴えられる。

井上哲士君

 日本共産党の井上哲士です。今日はどうも参考人の皆さん、ありがとうございます。

 最初に大南参考人にお聞きをいたします。

 今日は各委員から、やはり教員の人的体制なしにこの課題が進まないんじゃないかということが出されておりますし、先ほどもお話がありました。それで、大南参考人は中教審の特別支援教育特別委員会にも所属をされていたわけで、当然その議論の過程では、教員定員の配置というものは言わば前提としての議論があったんではないかと思うんですが、その辺の経過と、結果として十分な配置がされてなかったことへの御意見、それから、先ほどは特別支援学校のいわゆるセンター的機能についての人的配置の必要性を述べられましたけども、いわゆる特別支援教育、小中学校等における、ここでの人的配置の必要性についてはどういうことをお考えか、まずお聞きしたいと思います。

参考人(大南英明君)

 まず第一点目の人的な配置を含めた条件整備の件でございますが、これは、審議の過程の中では話としては出てまいりまして、現在こういう状況なので、これを更に進めるためにはこれぐらい人数は、具体的な人数は出ておりませんけれども、より多くの人的な配置が必要であろうという話は出ておりましたが、最終的には、条件整備を答申の中に入れるというのはどうもふさわしくはないだろうということで、今回の答申の中には出てないわけです。

 それから、二点目の特別支援学級、特別支援教室への人的な配置でございますが、まず特別支援教室が目指すところでいきますと、先ほど山岡参考人が図を出されておりましたが、一週一時間程度から二十八時間程度まで非常に幅のある教室を用意をしていかなければならない。としますと、一つは現在の特殊学級に配置をされている教員プラスアルファぐらいのところで教員が配置されることが必要だろうと。今一学級八人で一人の教員しか配置されていませんので、複数の学級で複数人配置をされるようなことが考えられる。

 それから、通級による指導が現在行われておりますが、これも人数がかなり多いところで、一人の教員がかなりの人数を負担しなければならないということがあるわけです。それから、東京のように交通機関が発達しているところでは児童生徒が移動してまいります通級による指導というのは可能なんですが、交通機関が発達をしていない、人口の集約していない地域では、むしろ児童生徒が動くんではなくて教員が動く巡回による指導、訪問教育とは違うんですけれども、児童生徒は学校にいて教員が動く、これに対して新たに教員を付けていくことが私は必要なんではないだろうかというふうに思っております。

井上哲士君

 ありがとうございます。

 次に、山岡参考人と三浦参考人にお聞きをいたします。

 先日、NPO法人の大人のADD & ADHDの会というのがアンケート発表されていたのを非常に興味深く読んだんですが、既に大人になられているADHD等の方なんですが、学校に通うのがつらいと感じたことがあるかということに八四%の方がそう答えられ、そのときに先生は理解してくれましたかというのには、九二%が理解してくれなかったと、こういうふうに答えておられまして、先生の理解がちょっとしたことでもあれば随分違うんじゃないかなということはここからも見て取れるんです。

 同時に、これで興味深かったのは、ADHD等の診断を、要するに気付いてから、それから診断を受けるまでの期間が平均で四十一・四か月ですから、三年以上掛かっているんですね。この人たちは既に一定の年齢になっていますから、今とは少し状況は違うのかもしれませんけれども、なかなか親が認めたくない、本人も認めたくないとさっきお話ありましたけれども、そういうことも少し表しているんじゃないかなという気がしております。

 一方、今回そういう人たちをきちっと位置付けるということでの前進はあるわけですが、これも全国LD親の会が二〇〇四年十月に出されたいろんなのを見ていますと、プライバシーへの配慮がないと。懇談会で保護者の承諾なしに先生が子供の診断名を出してほかの親に子供の話をされてしまったというような苦情といいますか、出ております。ですから、特別な配慮はしてほしいけれども、ほかの親や子供に知られたくないという、こういうお気持ちもここにはあるんだろうと思うんですね。

 ですから、今回、LDやADHDの子供たちに特別な支援をする場合に、それを言わば知られるということも出てくるわけですね。これは根本的にはやっぱりいろんな社会的認識が上がらなくちゃいけないという土台はあると思うんですが、しかしそれを待つわけにはいかないわけで、うまくこのことが機能していく上で、親の側、そして学校の側で具体的配慮をしたりする点で何が必要かということをそれぞれからちょっとお聞きしたいと思います。

参考人(山岡修君)

 まずは、おっしゃったとおり、先生が理解できない。例えば忘れ物が多いとか、それからだらしないとか、授業に集中できないとかいうところの背景にADHDがあったりするわけですけれども、その背景にあることが分からないので、ふざけているんだとか、辛抱が足りない、家庭のしつけが悪いということに、誤解を受けるわけです。そうすると、先生は立たせるとか叱責に入って、かえって逆効果になってしまうと。まずは先生がそういったものが背景にあってそういうふうなことになってしまうということを理解してあげること。

 それと、今おっしゃったように、クラスの中で、例えば目が悪ければ眼鏡掛けるじゃないか、あるいは背が低ければ台に上がって物を取るじゃないかと、それと同じなんだよと。要するに、この子供たちは、今は学校の先生はすべての子に同じように手を掛けることが公平と言っていますけれども、そうではなくて、必要な子にはちょっと手を掛けてあげる、それこそが公平なんだということで、クラスの中でもそういういろんな違いのある子がいるということがあって当然だし、そういう子に必要であれば助けてあげようねというような雰囲気をつくっていくことが大事だと思います。

 それから、学校の中で、保護者も実は認めたがらないことが非常に多くあります。そこのところが非常に難しいんですけれども、今おっしゃったとおり、社会全体での理解というのを高めながら、並行して進めていくしかないなというふうに私は思っています。

参考人(三浦和君)

 子供と会うとき、あるいは子供と話をするとき、子供の目の高さに合わせることということがよく言われますね。教師と子供との関係も密度の濃い形でどうつながるかということの姿形というのがやっぱりあると思うんですね。それと似たように、親御さんと、今度は親御さんとの理解者であろうとする人たちがどのような形で接触するかというのも大変大事なことで、これなんかもやっぱり、丁寧な言葉ばっかりお互いに使っていると丁寧な形でしか付き合えないと。ぞんざいな形がいいかどうかはこれも別ですけれども、いずれにしても、何といいますか、同じ目の高さ、同じ心の高さというか、同じ気持ちという、そういう共有する場がどうであるか。

 それから、どんなことをお互いに経験したか、特に経験の仕方というのは私はとても大事だと思うんですね。あなたと似たような経験を私もどこかでしていますということが言い切れるか言い切れないかによって親御さんとの関係は成り立つと思う。全く知らない人とはつながらないと、こういう形。私はそんな気持ちで、分かったような分からないような言い方しましたけど、分かってください。

 以上でございます。

井上哲士君

 分かりました。

 次に、嶺井参考人にお聞きをいたしますが、最初のお話の中で、今回LD、ADHD等を支援対象として位置付けたけれども、まだまだ範囲が狭いではないかというお話があったかと思います。

 諸外国のいろんな施策とも比較しまして、さっきもありましたように、すべての子供に、教育というものは一人一人ニーズに合ったものにするというのは必要なんですが、特に今回のことで言いますと、まずはここまでは広げるべきだというようなことが諸外国との関係も含めましてありましたら、お話しいただきたいと思います。

参考人(嶺井正也君)

 障害の種類とか程度とかいう問題よりも、私が申し上げましたのは、先ほどもありましたように、地域の学校で、兄弟と一緒に入りたいという子供たちがいろんな形で学校に入っているわけですね。その中には身体障害の子もいれば、発達障害の子もいれば、知的障害の子もいると思うんです。そういう願いが受け止められるような通常学級のシステムにしてほしいということが基本でありまして、こういう障害があるから特別支援教育が必要なんだということではなくて、基本的に場を共通する中に手だてを受ける、そういう要求があったときにこたえるような柔軟なシステムにしていただきたいというのが私の基本的な願いです。

井上哲士君

 次に、大南参考人と三浦参考人にお聞きをいたしますが、特別支援学校でどういう教育課程を今後していくのか、構築をされていくわけですが、私も京都市がやっている総合養護学校なども見てきたわけですけれども、既に個別指導計画というのも作られ、そして障害の種別の違う子供たちをグルーピングをしまして、クラスとは別に授業はグルーピングでいろいろやるということがやられておりました。それはそれで必要だと思うんですが、ただ、場合によっては、どうも担任の先生がいても週のうち半分も授業を見ないというようなこともあるようなことがありまして、結果として一人一人の発達をトータルにきちっと見るということがおろそかになるんじゃないかというような声も先生方からはお聞きをしたわけですけれども、そういう今後の教育課程の在り方についてどうお考えか。

 あわせて、その個別指導計画も、幾つか聞きますと、長期目標、短期目標というのがあるんですが、短期目標の中で具体的に分かりやすいことが余りにも強調されて、どうも総合的な発達がおろそかになるんじゃないかと、こういう声もお聞きしたんですが、その辺の今後求められる教育課程の在り方等について御意見をお聞きしたいと思います。

参考人(大南英明君)

 まず第一点ですが、学年にもよると思うんですが、低学年のうちはできるだけ特定の教員が特定の子供にかかわる時間を多くしていく、学年が進むあるいは発達が進んでいきますとほかの教員のかかわる時間を増やしていくという、こういうことが私は指導の基本になっていくんではないかというふうに思います。

 そのベースになりますのが、今先生が個別の指導計画というお話をなさいましたが、今後考えられるもっと大きなプランといいますか計画は、個別の支援計画という構想がございます。

 これは、障害が分かった時点から学校を卒業した後までの長いスパンで、例えば、大南が障害が分かったのが二歳の段階だとすると、まず医療が私の医療の支援計画を作ってまいります。それから、両親が保育所へ入れたとしますと、これで福祉がかかわって私の療育計画を、あるいは保育計画を作る。そして、学齢が近づけば、教育がかかわって、学校へ入った後どうするか。で、学校へ入りますと、今度はそこで個別の教育支援計画。まあ支援計画が変わるわけではなくて教育という言葉が入るわけですが。そして、今度は卒業する時期になりますと、例えば労働関係機関とかかわって、最後に卒業した後、今度は私は労働関係機関の支援を受けながら仕事をしていくという、そういう非常に大きな個別の支援計画、それを基にしながら個別の指導計画が作られていきますと、先生が御心配になっております、例えばコップから水をこぼさず飲むという、本当に具体的で、このことが一体将来の何につながるんだという、先生方心配をお持ちかもしれないんですが、それは私の個別の支援計画の中の日常生活の基本的な動作をマスターするという中のほんの一つであるという、そういうふうな理解ができてきますと、個別の支援計画を基にいい教育ができるんではないかというふうに思います。

委員長(中島啓雄君)

 では、三浦参考人、簡潔にお願いいたします。

参考人(三浦和君)

 発達をトータルに見ることができたかどうかという、見てなきゃこれは本当にお粗末の限りだと思いますね。この場合には、やっぱり計画と指導の実際と評価という三つのサイクルをきちんと、その担任の集団がきちんと持っているかどうかにかかわってくると思うんですね。

 そういう計画がどれだけできるか、そういう気持ちがどれだけできるかということと、特別支援計画を立てること、あるいは、要するに計画を立てることが、幾ら立派な計画を立てても、それを実際にどの場で、どういう時間帯で、どんなふうな周りの支援も受けながらやるかというのは、そんな指導の構造、指導そのものの構造をどれだけチームで、チームティーチングといいますけど、その集団の教師がどれだけ練っているか、そういう問題が大変大事なのではないかと。

 最近は、そういうところが、どちらかというと、やっぱり大事なのはその教師集団がどれだけ綿密な形で連携を取っているかということが、私も最近現場を離れてよく分からなくなっているんですが、多少その点が不足しているのかなと思ったりもするんですが、いかがなもんなのでしょうか。もう少し今度、もう一度この機会にのぞいてみたいと思います。

 ありがとうございます。

井上哲士君

 ありがとうございました。


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