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2007年6月12日(火)

文教科学委員会4・名古屋地方公聴会
教育3法案について

  • 公聴人の名古屋大学大学院教授の植田健男氏は、教育は「異質共同」の体制で仕事を進めるものであり、副校長等の職の創設は教職員を上位下達の構造にはめ込むことにつながると述べられる。

井上哲士君

 日本共産党の井上哲士です。

 今日、四人の公述人の皆さん、本当にありがとうございます。

 昨年の教育基本法の改正の議論のときに、全国の校長先生から取ったアンケート結果というのがかなり話題になりました。そこでは、言わば改革改革というものが学校現場に来たけれども、それに付いていけないというのがかなり多数の声であったわけですね。それで、ゆとり教育にも見られますように、この間、打ち出された方向が必ずしも検証されないままに転換をしたり、新しい方針が重ねられたりと、こういうことがかなり起きていると思うんです。

 そこで、まず、先ほども議論になりました十年研修と免許更新制度の問題について、それぞれからお聞きをしたいんです。

 免許更新制度については、植田公述人は制度自体反対、他の三人のお方は、研修内容が当然問題になるけれども、制度自身は賛成という御意見だったかと思います。ただ、十年研修制度というのが始まっているわけですね。むしろ、これを充実をするということによって賄えるのではないかという意見もあります。免許更新というのは、やはり教員の身分を大変不安定にするわけですから、目の前の子供よりも失職の不安が頭をよぎるということにもなりかねない、こういうデメリットもあろうかと思うんですね。

 そこで、植田公述人以外の三人の方には、今の十年研修の評価、そして、こういったものを充実させることによって、いわゆる免許更新、失職の危険というのにさらすんではなくて、むしろこれを充実したことによって教員の皆さんの力量向上を図ると、こういうことでは駄目なんだろうかということについて御意見を伺いたいと思います。

 植田公述人は、こういう更新制度が本来の意味での専門性を著しく損ねるというお話もあったわけですが、もう少しこの点詳しくお聞きしたいのと、それから、アメリカでは既にこれが導入されているということもあったわけですが、国際的に見てどういう状況になっているのか、御存じであればお願いしたいと思います。

公述人(植田健男君)

 私は、先ほど申しましたように、社会的な客観的要請ということについては理解をするけれども、それを免許の更新制という形で片を付けるべきではないというのが基本的な議論で、むしろ学校現場の中において教師が学び合うことをより重視をする、余裕を与えるということが非常に大事ではないのかなという趣旨で申し上げました。

 教師の専門性に対する理解自体が、先ほどこれも触れましたように、どうしても教科の問題、あるいは自分が指導するクラスやあるいは学年の問題としてとらえられてしまって、なかなか専門家が横に手をつないで子供たちの発達にかかわるとか、それから地域や父母が持っている課題もちゃんと見通した上で学校のあるべき姿を考えるというようなものに、つまり現代的な専門性の方に今は道を広げていくべき時期に来ているんだと思うんですね。そのことは、教員免許状で片を付けようと思っても、これはもう付けようがない問題だろうと思うんです。だから、その意味で、手を入れるところが違ってはいないかという趣旨で申し上げたわけです。

 そういう不安の中で、井上議員がおっしゃいましたように、教員身分の不安定化にやっぱり手をかしかねないものを課されたら、ますます教師が萎縮をしてしまうということ、これはやっぱり心理的な逆効果というものが私は懸念されると思います。

 それから、諸外国の事例なんですけれども、よくこういう形で出されるんですけれども、是非お考えいただきたいのは、国によって学校という制度や教師の役割が違っているということがあると思うんですね。例えば、私はイギリスを専門にしておりますけれども、やはり学校の性格は知育学校であると。つまり、知識をいかに生徒に与えるかということが学校の仕事だし、基本的にそれが教師の任務であるし専門性になっているという国と、日本のように知育を含めて子供たちの人格の完成に働き掛けるということを目的としている国の教師、そしてその専門性、免許制度というものには明らかに質の違いがあっていいと思うんです。

 だから、そういうことを無視した上で、ほかの国に更新制をやっていると、日本でなぜ入れないんだという議論というのは私はどうなんだろうかというふうに思っておりますので、アメリカの問題について知見を持ち合わせているわけではありませんけれども、是非、それは外国のことに学ぶときに注意をしていただきたいなというふうに思っております。

 不十分なお答えで申し訳ございません。

公述人(坪田要三君)

 外国のそういう制度そのものは、それぞれの文化が違いますので、国の成り立ち、生い立ちが違いますから、一概に同じだということは言えないし、違っているとも言えないと思います。その文化をよく理解した上で、国策に持ってくるなら持ってくるというふうにしなければいけないというふうに思っております。

 アメリカの場合は、やはりああいう競争社会ということですから、そういうものの中にそういうものがあるということです。それじゃ、日本は、じゃ、どうかという問題になります。

 私、フランスへ一か月ばかり研究に行ったときに、小学校を中心にしてずっと研究したことがありますが、そのとき、小学校六年生になると国家試験があるんです。それで、点数をずっといろいろな能力まであらゆる機関で検査して、君は大工になりなさい、君は四年制大学へ行きなさい、君は医者になりなさいと、こういうふうにやっておるんです。私びっくりしまして、それで、そんな小さいときから職業を決められてと言ったら、いやいや、全然違いますよと。職業に貴賤がありません、そういう社会ですと。だから、大工なら一流大工にちゃんとなれるような社会制度になっているし、医者は医者だと、こういうふうに答えが返ってきまして、ああっと思ったことがあります。

 じゃ、それをそのまま持ってきたかというと、そうじゃなくて、日本の小学校教育もフランスの制度を少し利用していたわけですね。それが、ぐるぐるとこう今日変わって、旧法の改正になって、それからずっとこの六十年間来たと。こういうところですので、私が言っている研修と、それから講習とは、あるいは免許更新とはちょっと次元が違うものですから、どちらでもいいような感じなんですけれども、今のところでは、免許制を考えたときに、やっぱりきちっとそこで一遍やるという形の方がいいんじゃないかなという感じで申し上げたわけです。

 以上です。

公述人(田原賢一君)

 それでは、今、免許更新制の内容が十年研修ではなぜ駄目なのかということなんですが、それはやはり採用の段階で、教師は、いわゆる天職じゃありませんけれども、その職業に向いているか向いていないのか、やっぱり人によって違いがあるんですね。向いていない人もいることは確かです。そういう意味で、採用の段階でそれをうまくセレクトできるかというと、必ずしもそうでないというようなことがありまして、やっぱりある意味での、過度に不安がらせる必要は全くないんですけれども、そういう意味での一つのチェックポイントは必要かなということを感じています。

 そういう意味では、十年研修ではなくて、やっぱり免許更新制という道を一つ選ぶということも考えられるのじゃないかと。ただ、そのときに注意しないといけないのは、今話もございましたけれども、過度に不安がらせるというか、免許の更新制をちらつかせて、いろんなことをそのときに行うということはできるだけ避けるということに配慮をいただきたいと思います。

 以上です。

公述人(深谷孟延君)

 基本的に、免許にかかわる研修とそれから要は十年目とかいう研修とは、これは区分けする必要があるのではないかなということであります、結論申し上げますと。

 それで、研修に関しましては、先ほども時代の要請とかいろいろあるように、もう現場の教員、クレーマーに追われている人がたくさんいます。私の知る範囲でうつ病の大半はそういう人たちがあるということです。ですから、今というときのいわゆる研修はどうしたらいいのかということが、これはいわゆる免許更新とはちょっと違うところで考えていく必要あるのではないかなと。

 それから、いわゆる研修に関しましては、教員、ライフスタイルに応じた研修はありません。どうでしょうか、十年目の後、何年目がありましょう。校長さんになると新任校長研修会とかそういうのはあるわけですが、本当の意味での研修、これがどういうふうに教員のライフステージの中であるのかと。これは確かに自主的でいい。ところが、私、知る範囲で、本当に自主的には何人していると、何%していると思われますか。官制研修すりゃ反論、批判が出るに決まっています。この辺の折り合いを本当にどう付けるかということは考えていく必要があるのではないかなと。

 それから、話があっち行ったりこっち行ったりしますが、免許の更新が三十時間だったですかな、果たしてそれが、いろいろ三十時間、六十時間、百時間あるようですが、学校現場の視点から考えたときに、じゃこれだけの時間数ならば、一方で子供と一緒におらなあかんと言いながら、すごい時間数でやれとか、この辺はよく両方を勘案してみて、妥当な時間数はここだということをお考えをいただきたい。

 以上です。

井上哲士君

 では次に、新しい職に関してお聞きをいたします。

 先日、参考人質疑を国会でやったときに、いわゆるなべぶたと言われる教員の組織というのはむしろ合理的なんだという御発言が京都市の高校の校長先生からありました。教員というのは、しっかり議論をして納得してこそ力が発揮できるということから、大変むしろ大事なんだということを言われておりました。

 それで、深谷参考人からは、今の学校というのは組織というよりも教員集団であって、これを組織としての学校にする上では大切なんだという公述、御意見もあったわけでありますが、こういう、むしろ教員が納得し、そして力を発揮していく上で、今までいわゆるなべぶたと言われた組織の形態というのは大変大きな力を発揮したという意見もあるわけですね。こういう点についてどうお考えか、深谷参考人とそれから坪田参考人にもお聞きしたいと思います。

 それから、同じ件で、植田参考人には、既に都道府県によってはこういう主幹制度に近いものを導入しているところがあるわけですけれども、そういうところでの状況など御存じであればお願いしたいと思います。

公述人(深谷孟延君)

 話し合う力とか、そういうことは私は重要なことだと考えています。それを何も否定はしておりません。

 ただ、体制としてどうかいうと、今も申し上げましたが、クレーマー問題が来る、あるいはいじめの問題が来る、あるいは不登校の問題、学級崩壊、一方では、個人で抱え込むなと言うんですよね。それと、一方では、組織というと上から下へだと、こうなる。そのときに、本当に支え合うというのは組織がない限り支え合えません。だから、問題は、この体系をどう運用していくかということは今後の問題であって、だから私はこの職をつくることは重要であるし、今後の新たな学校をどう構築していくかということではないかと、こう思っております。

 以上です。

公述人(坪田要三君)

 今までの経験からいいますと、話し合って終わりということが多かったわけですね。で、どうにもそれが生かされないというところがあったんですが、考えてみますと、やっぱり教育そのものは教と育というふうに教えられておりますように、教え込む部分と、育、育てる。育てるという字は、逆さまに言いますと、下が月ですから、これが母。上の方をこういうふうに見ますと子という字ですね、子がひっくり返っているという。子と母、すなわち母親とあれが対面しているというふうに言われますが、そういうふうに両方あるわけです。

 それを自分の研修、自分の力そのものだけでだっと出しますとやっぱり違いが出てきますので、組織としてそれを、どの部分を取り上げるかということは大変難しいと思います。長年やっぱり、どのかいわいでもそういう点ではなかなか話合いしても付かないということがあるわけなんで、皆さんが納得する点を取り上げてそれを法制化していくとか、あるいはいろいろなことを、約束事をつくるとかということは必要じゃないかというふうに私は今思っております。

 以上です。

公述人(植田健男君)

 こういう主幹制度のような中間職制が入ってきますと、結局、学校の仕事を限りなく定型化された事務仕事化をして、上から下への命令関係で進めていくということにやっぱりなってしまうと。すると、一見効率がいいようなんだけれども、教職員の力量形成の問題も起こるし、相互の信頼関係にも相当にひびが入るということがやはり起こっているというふうに私は見ています。

 特に、教員評価を行う際に、例えば主幹がその中間的な評価を行う存在にされてしまって、これまで同僚だった人たちに対する評価者として立ち現れると。それを教頭が評価し、その教頭を校長が評価しという形の上下のやっぱり序列化の問題に返ってしまうと。そのときに何が起こっているかというと、管理職の希望者が減っているということがあると思うんですね。

 つまり、これまでであれば、さっきのなべぶた組織の中でやがては自分も校長になって学校づくりの先頭になって頑張ってみたいと、そのための経験を今積んでいるんだということで、かなり個人的な契機もあるかもしれませんが、校長になることで学校を変えたい、変えられるという、こういう希望はまだあったんだろうと思うんですが、今のような完全な上下関係になって、しかも教員評価の評価者にされてという形になってしまうと、どう考えても管理職に夢がないと。しかも、一挙に校長にはなれないわけですから、順番を踏んで下から上がっていかなきゃいけないと。特に中部圏では管理職の上下構造は非常にはっきりしていますから、現場の先生は、今日は一番が欠勤しているとか二番が来ていないとかという番号で呼ぶような風土があるように思うんですね。だから、本当にそれは学校という教育の本質にかかわったときにいいことなのかというときに、私はやっぱり疑問を感じざるを得ないというふうに思っています。

 だから、学校を代表する責任者としての校長はやはりはっきりと責任を取ってもらわなきゃいけないし、リーダーシップを持ってもらわなきゃいけないけれども、校長も含めて専門家の集団としてやっぱり動いてほしいと。その中にいろんな力量の差はあるだろうけれども、それを埋め合わせるような専門家の集団であってほしいと。そういうところにこのような新しい職を持ち込むということをやると、そういう学校の姿というのはまず絶望的になってしまうんじゃないかというふうに私は思っています。

 以上です。

井上哲士君

 次に、田原公述人にお聞きします。

 この免許更新制が仮に実現をいたしますと、先生の大学などが更新講習とか、それから認定ということをやることになると思うんですが、実際の細かいやり方などは全部、法成立後、文部科学大臣の定めるところにより行うと、こうなっているわけですね。相当不安が現場にはあるんではないかと思いますし、どういう点を審議の中で更に明らかにしてほしいと思っていらっしゃるか。それからまた、やる上で大学に更にいろんな、予算的なことも含めて、必要なことがあるかと思うんですが、その辺、どのようにお考えでしょうか。

公述人(田原賢一君)

 免許の更新制につきましては、まだ大学として議論ができているわけじゃございませんけれど、法整備ができてからと思っていますので、大学の意見というわけではありませんけれど、個人的には、やはり免許の更新制については、中身をどれだけ公正なもので、国が指定するにしろ、どこかがこういうのを考えるにしろ、公正性の担保というか、それをやっぱりきちっと持っておかないといけない。それからもう一つは、教員としての資質能力ということになると、いつの時代にも変わらない一つの尺度がある、それと同時に時代によって変化するものもある、そういうことで、その辺のバランスをどういう形で取るかということによって中身も変わってくるのではないかなと思っています。

 特に、教科に関する内容というのは割と時代の変化には独立した内容を持っている、それに対して、政策的なことについてはその時代時代の対応が求められる、そういう状況がございますので、そういう意味では、更新制は国が指定するかどうかはともかくとして、そういう公平性の担保を、きちっとした、だれが見てもおかしくないような基準を是非設定していただきたいというふうに思っています。


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