本文へジャンプ
井上哲士ONLINE
日本共産党 中央委員会へのリンク
2012年4月11日(水)

憲法審査会

  • 「大震災と人権保障」をテーマに3人の参考人から意見を聞き、質疑しました。

井上哲士君

 三人の参考人、ありがとうございます。

 最初に、棟居参考人と西條参考人にお聞きしますが、棟居参考人の御意見の中で、優等生たる現行憲法は修羅場で必ずしもうまく機能しないところもあるという趣旨だったかと思うんですが、その中で個人補償のことも挙げられました。ただ、この問題は阪神大震災のときに大きな問題になって、個人住宅への補償を求める声に対して日本の憲法ではできないんだというような議論があったのに対し、これ非常に超党派また市民運動もあって、被災者生活再建支援法を作って、事実上の住宅への個人補償ができるように発展をさせてきました。それから、今回の東日本大震災でいいますと、いわゆる事業の施設ですね、そういうところに対しては、これまでは融資だけだったのが中小企業などがグループを組めばこれも直接の補助ができるという、これも発展をさせてきたんですね。

 そういう点でいいますと、今の憲法は生存権とか幸福追求権などで非常に懐も深くて幅広いものを持っていて、むしろ個別の制度や立法が追い付いていなかったことにこそ私は問題があると考えているんですけど、その辺どうお考えか、それぞれからお聞きしたいのが一点です。

 それから、櫻井参考人に原発の訴訟の問題で私もお聞きしたいんですが、差止め請求で原告勝訴の判決書かれた井戸裁判官が最近書かれていますが、普通の人格権侵害を理由とする民事訴訟では原告側に立証責任があると。しかし、公害裁判の場合はこれが逆になっていて、それは、現状を改変するのも、それから安全性についての資料を持っているのもこれは被告側にあるということで逆転しているんだが、原発の民事差止め訴訟ではまたこれが逆になっていて、専らやはり原告側に立証責任を負わせるということが、当初はそうでもなかったのが今はそうなっているという、こういう御指摘をされているんですが、こういう現状についてどういう御認識かということと、それから、どう変えるべきかという辺りをお聞かせいただけたらと思います。

会長(小坂憲次君)

 それでは、まず棟居参考人からお願いします。

参考人(棟居快行君=大阪大学教授)

 個人補償についての御質問といいますか、徐々に個人補償の範囲が充実してきておる、今回も、中小企業などグループをまとめることによって直接の補助が可能になっている、これは憲法原理と相反するということなのか、そうではないだろう、生存権あるいは幸福追求権といった憲法原理からすれば、むしろ本来こうあってしかるべきだったということではないのかと、こういう御質問というか、御指摘だろうと思います。

 私は、もちろんこのような施策は大変結構なことで、憲法上それができないなどということは一切言えないというふうに考えます。

 しかし、あえて言えば、国家の一施策でございまして、個人の側から財産権あるいは生存権、さらには幸福追求権という形で本来国家からの給付を個人が権利として有するかというと、そういうふうに憲法はできていない。これは先ほど、最初に申しましたように、あくまで個人主義で、幸福も不幸も全て個人止まりというのが建前で、そこまでは国家としても面倒が見れないという現実論もありますけれども、逆に言うと、余り国家がウイングを広げる、個人の幸福、不幸の問題に介入してくるというのはよくないんではないかというリベラルな国家観、憲法観が壁としてあるんだろうというふうに思います。ですから、施策としては大いに結構だけれども、権利論にはつながらないというのが私なりの立場でございます。

 失礼しました。

参考人(西條剛央君=「ふんばろう東日本支援プロジェクト」代表)

 個別の法律が追い付いていなかったというのは、本当にそのとおりだと思います。

 先ほども申し上げたように、やはり今回の想定外のことが起き過ぎたということはあると思うんですが、そのときにやはり法律、立法家の役目というんですか、それは、ボランティアには絶対できないことは何かというと、申し上げるまでもないと思うんですが、例えば、特区とか災害基本法もそうなんですが、先ほど申し上げた高速道路の無料化ですね。全国の動向と一緒に東北の方も同じように無料化が解除になったりとか、そういうことがあるたびに現地のボランティアは激減するんですね。これはもう事実で、今は本当に困っている方、何とかしてほしいという方はたくさんいるので、やはりそういった点で、結果として復興支援が進むような法律を作れる、その条件を整えられるのは本当にここにいる先生方だと思うので、是非、同じ悲劇を繰り返さないため、あるいはまだまだ本当にこれからも関連死の、残念ながらそういう死者もこれからどんどん出てきてしまうと思うので、やはり少しでもそういった悲劇を、これは人の努力で減らせるところだと思うので、減らすためにも、そういった条件を整える法整備といった点、是非御尽力いただければ有り難いと思います。よろしくお願いします。

参考人(櫻井敬子君=学習院大学法学部教授)

 訴訟の立証責任の分配の点なんですけれども、これは両当事者の実質的な公平という観点から、情報がある方がなるべく出すようにしてというのが普通の考え方なんだろうと思うんですね。

 それで、行政訴訟の場合は私はちょっと違う考えを持っていまして、民事訴訟の場合だと、AさんとBさん、基本的に対等な当事者間で、しかし、事実上、医療訴訟のように病院側の方が情報をたくさん持っているなんというように力関係に違いがあるような場合には、そこに配慮して立証について対応させるということかと思うんですけれども、行政訴訟の場合も似たようなところもあるんですけれども、原理的に言うと、国民が、今だと国若しくは地方公共団体に対して抗告訴訟等も起こすというふうになっているので、これ、国民と公権力の行使の主体が対峙するわけですよね。ですから、そうだとしますと、情報が国側等にあるということもさることながら、裁量権行使している場合には当然説明責任というのがむしろあるはずで、そういう観点からすると、立証責任の分配の話が民事と同じようなレベルで考えられてよいものかというのをむしろ逆に私などは問題意識として持っております。

 それで、さっき申し上げた福島第二原発訴訟も、当事者の主張がちょっと私余りにもすごいなと思ったんですけれども、判決はいいんですが、国側の主張というのがすごい古典的な行政法の理論を援用されていて、全部なるべく門前払いにしようとするし、裁量権も古色蒼然とした裁量論をおっしゃって全然問題ないんだということで、逃げの論理なんですね。これが国の代理人で、やっぱり裁判は一種のゲームみたいなところがあるので、裁判を勝つためには何でもいいということなのかなと思って読みましたけれども、ちょっとそれどうなのというところは率直に言って思ったところで、少し構造的には考える余地があるのかなというふうに思っております。


リンクはご自由にどうぞ。各ページに掲載の画像及び記事の無断転載を禁じます。
© 2001-2005 Japanese Communist Party, Satoshi Inoue, all rights reserved.