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「ヒロシマと日本共産党と私」――日本共産党100年の歴史と我が党員人生

 

    広島市で22.11.20に開かれた「党創立100周年記念集会 特別期間成功広島県活動者会議」で行った「ヒロシマと日本共産党と私」と題した講演のうち、前半の「日本共産党100年の歴史と我が党員人生」に加筆したものです。

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 党勢拡大党創立100周年を記念するこの集会で、そして党勢拡大の特別期間を成功させるというこの大事な会議の場で、「ヒロシマと日本共産党と私」というテーマで話をする機会を得ました。みなさんも、創立記念集会の志位委員長の講演を聞きながら、自分の入党の動機であるとか、そして、自らの党員人生を重ね合わせて聞かれたのではないでしょうか。

 私自身もそうでありました。私は、父親が銀行員で転勤が多く、もともと父は三次の出身で今も古い家がありますが、私が生まれた時だけは山口県徳山市で、その後、広島に帰ってきて、合併で今はありませんが賀茂郡西条町、比婆郡西城町、そして入学前に広島市内に移り、古田小学校、庚午中学校、国泰寺高校を卒業しました。大西候補は庚午中学校の私の後輩ということになります。大学進学で、18歳で京都に行って以来京都にいますが、私にとって、育った広島は、入党を志す土台をつくった町であり、そして、私の党活動を色んな場面で背中を押してくれる町でもあります。

 今日は、党創立記念講演を聞いた時の感想も含めて、自らの党活動や入党の初心を振り返って、そして、語ることができることは大変な喜びであります。そしてまたそのことは、次の100年のいわばスタートダッシュの責任を担うという決意を自らに課し、決意を固めることにもなりました。こういう場を与えていただいた県党のみなさんにまず心から感謝をしたいと思います。そして今日の話が、みなさんの活動に、みなさん自身が今後党を語ることに一つでも力になれば嬉しく思っています。

 志位さんの100周年の記念講演でのべられた日本共産党の100年を貫く3つの特質。1つ目は、どんな困難のもとでも国民を裏切らず社会進歩の大義を貫く不屈性。2つ目は科学的社会主義を土台にした自己改革の努力。そして3つ目は、国民との共同、統一戦線で政治を変えるという姿勢を貫く、この3つの柱に沿って、私自身の党員人生を重ね合わせながらお話をさせていただきます。

 入党して45年余りになりました。国会議員としては21年余りとなりました。そのことと重ね合わせてお話します。

 

(1)どんな困難の下でも貫く「不屈性」――入党の決意であり、活動の土台

  まず、どんな困難のもとでも貫く不屈性というのは、私自身の一番の入党の動機でもありますし、今の活動の土台でもあります。

●「破戒」と映画「ひろしま」 ――理不尽に屈しない生き方をと大学で入党。専従に

 私が、社会や政治に関心を深めるきっかけになったのは、1つは島崎藤村の「破戒」です。もう1つは、高校で見た映画「ひろしま」です。一定年齢以上の方は藤村の「破戒」を読まれたと思いますが、被差別部落に生まれた丑松がそのことを隠しながら教師を続ける苦悩を描いた名作です。中学生の時ですが、なんで本来平等であるべき人間が、こんな差別で苦しみを味あわなければいけないのかと思いました。こんな社会でいいのかと私は思いました。

 そして、もう一つは、高校2年の時に見た「ひろしま」という映画です。1953年に約9万人の広島市民のエキストラの参加でつくられたこの映画。見られた方も多いと思います。私は高校の体育館でみんなでこれを見ました。あの映画の舞台の一つが実は広島国泰寺高校の前身の広島1中なんですね。当時の広島の中学1年生は勤労動員で、建物疎開に多数動員されていました。広島一中でも、一年生の半分は雑魚場町の現場に行き、半分は学校の中で待機をしていた、その時に、8月6日の朝、原爆が落とされました。1年生のほぼ全員が、亡くなりました。人間の形で死ぬことも許されなかった先輩たちもいた。そのこと知りました。

 学校にいた先輩たちは、多くが校舎の下敷きになり、けがを負いながら川に避難した先輩もいました。実は私は、広島国泰寺高校で応援団長をつとめておりまして、旧制中学のバンカラに憧れて応援団に入ったんです。国泰寺高校は、広島一中の校歌の「鯉城の夕べ」というのを応援歌として歌ってたんです。校歌よりも応援歌のほうが好きだし、いつも色んなところで歌っておりました。そして、お互いに励ます歌でありました。その「鯉城の夕べ」が、この映画の中で歌われるんです。校舎で下敷きになったり、火事から非難して川に入った先輩たちが励まし合いながら、歌うわけです。やがて途中で聞こえなくなり、ほとんどの人が亡くなるというシーンです。自分たちが本当にいつも歌っているこの歌が、こんな悲しい歌い方をされたんだと、いうのは、衝撃でありました。

 小さいころから、まわりには、原爆慰霊碑もありました。原爆の話をよく聞くことがあった。でも昔話だったんですね。しかしこの時、初めて、自分のものとして、自分が今学んでいるこの場所でこういうことがあったと頭の上から落ちてきたような気がいたしました。なんでこんな理不尽が許されたのか。なぜこれを止めることができなかったのかと、その時に私は思ったんです。そして、こういう理不尽なことには、決して頭を垂れない。黙ってはいない。そういう生き方をしたいというのが高校生の時の私の誓いでした。

 ただ残念ながら、周りに共産党や民青とのつながりがありませんでしたから、その思いはその思いだけであったんです。しかし、やはり反戦自由ということに対するあこがれもありましたので、その伝統がある京都大学に挑戦をして入学しました。京大には、当時、赤ヘル暴力集団がおりまして、1回生の5月から教養部はバリケード封鎖される事態になったわけです。学問の自由も学問をする自由も、それから普通に訴える自由さえも暴力でつぶされていく。こういう学園暴力に対して絶対許さないと学生自治会執行部を中心にたたかわれていた。その先頭に多くの共産党員がいたことを知って私は、大学1回生の4月に民青に入り、5月に入党しました。

 その夏に初めて、広島で行われた原水爆禁止世界大会に参加したんです。それまで、私は、8月6日になると全国から色とりどりの旗やのぼりが集まってきて何やら騒がしい、お祭り騒ぎではないんだよと少し反発をしていました。しかし、大学で民青や党に入り自治会活動に参加をする中で、7月になりますと、いろんな労働組合や学生自治会、民青の班でも街頭で世界大会への派遣のカンパと署名活動やるんです。大学の周りの町内会にも1軒1軒訪問するんです。私もやりました。そうしますと、毎年京大の学生がくるということで待って下さる方もたくさんいらっしゃるんです。ずっとこれが積み重ねられてきたということをその時に知りました。世界大会は、私は早めに帰省をして会場で待っていたわけですけども、そこに全国からの参加者がデモ行進で集まってくるわけです。そのデモにある、この色とりどりの旗やのぼりがその前の年までとは全く違うものに見えた。お祭り騒ぎではない。その一つ一つに署名やカンパ活動がある。平和への願いを集める努力があるとそういうことを感じました。その先頭に日本共産党がいる。この道は、本当にまちがってなかったと思ったのが大学1年の夏でした。

 その後、色んな形で、広島の党の活動にふれました。占領下のプレスコードがあって、原爆について宣伝も出来なかった中で、福屋のデパート屋上からビラをまいた話、これも学生の時に知りました。広島の党はすごいことやったんだなと思いました。そして、峠三吉の詩集。「父を返せ、母を返せ、年寄りを返せ、子どもを返せ、私を返せ、私に繋がる人間を返せ、人間の人間の世がある限り崩れぬ平和を返せ」これを詠んだ峠三吉も日本共産党員だということも知って、改めて党への確信を深めたのが私の学生生活でした。当時、京大民青は、地区委員会つくっていましたので学籍を持ちながら専従の地区委員長になりその後、卒業して、京都府委員会で党の専従になりました。この党が大きくなることこそが、平和と民主主義ができるという確信から、色んな苦労はありましたけど、当然のようにその道を進みました。 

●活動の節々で核兵器廃絶の願いに背中を押されてきた 

 この原爆の問題というのは、私のその後の党活動の中でも常に、背中を押す存在でもありました。30歳になるころに母が実は被爆者手帳を取得していることをはじめて言ってくれた。当時の吉田町で女子学生だった母は、多くの被爆者を救護いたしまして、3号被爆者として手帳をもらっているんですけど、それまで一言もしゃべりませんでした。姉が結婚するまでは言わないでおこうと思ったんじゃないか思いました。こんなに身近な人にこんなに辛い思いをさせるのが原爆だと思いました。

 いろんな節目、節目がありますが、2010年にニューヨークで開かれたNPT再検討会議に参加した時のことです。白血病で亡くなった佐々木貞子さんの描いた千羽鶴という絵本の読み聞かせを日本でやっている方とニューヨークの場で会いました。本もいただいてお話してますと、佐々木貞子さんの同級生たちがカンパを集めて、平和公園に建立した「平和の子の像」というのがあります。あれが建立された日が1958年5月5日だということを知りました。この日、実は私の誕生日なんです。今まで平和公園で何度も見たけど気が付いていなかった。それをニューヨークで知った。自分は平和の願いを受け継ぐために生まれてきたのではないかと、そんなこともその場で思って、鳥肌がたつような身震いがしたことを覚えています。

 さらに昨年の広島の平和大会の時のことです。毎年小学生の平和への誓いがありますよね。総理のしょうもない挨拶と比べて、本当に素晴らしいんですけど、去年の大会のあいさつの時には、二人の小学校6年生が、「私たちには使命があります」と言ったんです。広島に生まれたものとして、被爆者の思いを受け継いで、世界と次の世代に広げる使命がある。そのことを誓った。本当に感動しました。小学校6年生がこんな使命を語っているんだから私は、被爆2世としても、そして、国会議員としても、もっともっと使命を果たさなくてはいけない、こう思いましたし、この被爆地、広島の党の大きな使命もあるということを改めて去年の大会で背中を押されたわけであります。

●毎年の核兵器問題の質問。ただ一党、核兵器禁止条約採択の国連会議へ参加 

 国会議員になってからは、毎年のように核兵器問題で、質問をしてきました。NPT再検討会議には2度参加し、核兵器禁止条約の採択の国連での会議には、志位・笠井・大平・私の4人が日本共産党から参加しました。政党としてあの会議に参加したのは、日本からは日本共産党だけだったんです。以来、あの採択に立ち会ったことの誇りと責任をいつもかみしめながら国会の活動をしてきました。国会質問の中では繰り返しこの条約の参加を求めるとともに、少なくとも締約国会議にオブザーバー参加しろということも求めてきました。

 政府が毎年秋の国連総会に核兵器廃絶決議案というのを提出するんです。これについても私、毎年ただしてきました。この政府の決議案には、核兵器禁止条約という言葉すらずっとなかったんです。無視です。これを何度も繰り返し追及をいたしました。しかしそういう中で、核兵器国の妨害をはねのけて、条約がついに発効して第1回締約国会議も行われました。この会議にはNATO加盟のドイツをはじめ、アメリカの同盟国もオブザーバー参加をしました。日本はアメリカに気兼ねして、それすらしないという中でも、会議は大きな成功を収めました。そして、その流れの中で今年のNPT再検討会議の最終文書、採択はされませんでしたけど、合意された文書の中には、核兵器禁止条約という言葉が初めて入った。それを受けて、今年の10月に日本政府が国連に提出した決議に初めて、核兵器禁止条約を認識するという言葉が入りました。「認識する」にとどまっていますが初めて入れたのは良かった。今度は、参加するということにさらに進めるために、ご一緒に頑張っていきたい。

●憲法に実った戦前の闘いを受け継ぐ――憲法守り生かし、願い実現へあきらめない 

 なんといっても不屈性というのは、戦前の戦争反対、自由と民主主義を掲げたたたかいでありました。

 長野県で戦前、労働運動に参加し、東京で特高につかまって亡くなった伊藤千代子さんの生涯を描いた「我が青春尽きるとも」という映画が上映されています。ご覧になった方も多いかと思います。私はそれを午前中に見てその日の午後に100周年記念講演を聞きました。本当に重なり合いました。たまたま翌日が長野県の諏訪で演説会でしたから、伊藤千代子の墓参りも一緒にしてきました。あの映画の最後に、諏訪湖が見える高台にある千代子のお墓に一緒にたたかった仲間たちが集まって、憲法ができた、この中に、反戦自由とか、主権在民とか、男女平等とか、実ったよねという語らいをすることが私は印象に残りました。まさに、戦前のあの不屈のたたかいが、今の憲法に実った、だからこそ、私たちは、どんなことがあってもこの憲法を守り生かすということをあの不屈の闘いを受け継ぐものとして、今、頑張ることができるんだと思っています。

 とりわけ憲法9条です。国連憲章は、二つの世界大戦の痛苦の教訓から、国際紛争の解決の手段として武力による威嚇や武力行使を禁止しました。しかし憲法9条はそれにとどまらず第二項で、戦力の不保持まで決めたんです。なぜ憲法が国連憲章よりも一歩前に進む中身になったのか、それはやはり、原爆があるんです。国連憲章が採択されたその後に、広島に原爆が投下されました。1946年に内閣が発行した「新憲法の解説」という冊子がありますが、その中にこう書いています。「原子爆弾の出現は、・・・重大段階に達したが、識者はまず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂いているのである。ここにおいて本章(日本国憲法第二章)の有する重大な積極的意義を知るのである」

 原爆の出現は、戦争になれば文明そのものが抹殺されるという認識があったからこそ、戦争放棄をさらに徹底した戦力の不保持まで9条に書き込まれたわけです。あの戦前のたたかいを受け継ぐ私たち、とりわけ人類で初めて原爆の被害を受けた、この広島の党にとって原爆の思いが込められた憲法9条を守り抜くということは本当に大きな歴史的使命だと思います。不屈の伝統を一緒に受け次いで憲法9条を守りぬく。核兵器廃絶へと一緒にみなさん、力合わせようではありませんか。

 

(2)党の「自己改革」の努力――自主独立にもとづく綱領路線の発展を力にしてきた

  ●「新左翼」への幻想打ち破る――暴力を許さず、選挙での多数を通じての変革を

 二つ目の柱は、党の自己改革の努力でありました。

 高校の時に色々社会に目覚めたと言いましたけど、なかなか周りに党や民青もいなくて、高橋和巳とか、柴田翔とか、いろいろ読み漁りました。心情的にいわゆる新左翼にシンパシーというのを持っていました。しかし、先ほど申し上げたように大学に入った時に、すぐに幻想は打ち破られた。大学をバリケード封鎖して、学内で授業もできない、教授会もできない、まともな宣伝活動もできない。その背後には、鉄砲から政権が生まれるという毛沢東の影響をはじめとした武装闘争の押し付けの影響がありました。こういう暴力集団との論争、そして党や民青に対しても、今は暴力反対を言っているが、結局、共産主義は暴力ではないか、暴力革命をするのではないかと誤解している学生たちへの説得、これを進めるためには、自主独立の路線にもとづいた綱領路線を確立していく党の文献や科学的社会主義の文献を必死に読み漁ったのが学生時代でした。

 これが確信になり専従の道を歩むようになったわけで、私の学生時代にとっても自主独立の路線、国民多数の支持を通じての社会変革ということは大学での社会進歩の事業の大きな力でありました。

● 「いかなる覇権主義も許さない」綱領路線の力――駐日ロシア大使との会談 

 いかなる覇権主義も許さない綱領路線というのは、今の私たちの活動、私自身の国会活動にも本当に生かされています。私、今年3月に、ロシアのガルージン駐日大使と会談しました。3月6日のNHK日曜討論で参議院の会派代表で、ウクライナ問題を議論してみんなロシアを批判しました。そしたらロシア大使館から封筒がきました。これがガルージン大使からの手紙でして、あて名は日本共産党参議院幹事長井上哲士閣下。閣下でございます。テレビを見ました。日本の政党がロシアを非難しウクライナを擁護しているのは、極めて不公平で遺憾だ。こういう内容でした。ぜひ、率直な意見交換をしたいとあったので、のぞむところだということで、国会に来ていただきました。

 大使はウクライナやNATOの軍拡に対してさんざん批判をしたうえで、ロシアはこれに対抗してやむなく特別軍事作戦をやっているんだと言いました。私は、日本共産党はNATOの軍拡には反対だけども、しかし脅威があるからといって他国に武力行使をする権利はどこの国にもない、あなた方がやっているのは国連憲章の侵略だと正面から申し上げました。大使から明確な反論はなくて本国に伝えるという話でした。

 そしてもう一つ、この手紙には、日本の政党がロシアを批判するのは、「おそらくみなさんが外部勢力の圧力を受けているからでありましょう」とあったんです。これ見過ごすことはできない。私は冒頭言いました。アメリカいいなりの党はこれでびびるかもしれませんが日本共産党には無縁だ、私たちは旧ソ連、ロシア、中国、アメリカいかなる国の覇権主義行動にも反対をし、そのことを明記した綱領を持ってるんだ、だから今あなたにこうやって正面から抗議をすることができるんだと言いました。これにも大使からは反論がなく、本国に伝えると言いました。ほんまに伝えるのかなと思っていましたら、しばらくしたら、ロシアに入国禁止の国会議員リストに志位委員長が入っておりまして、やはり伝えたんだなと思いました。日本共産党は手強いと思ったのでしょう。

 自主独立の路線のもとでのいかなる覇権主義を許さない綱領があることが、どれだけ今の現実政治の中で力になっているかということを本当に実感したのがこの瞬間でありました。 

●世界の構造変化――核兵器禁止条約で実感。ロシアのウクライナ侵略非難決議でも

  この覇権主義に対する闘争と批判を踏まえて党綱領は改定されました。世界の見方として、いわゆる二つの陣営論を廃止し、28回大会での綱領改定では「20世紀に起こった最大の構造変化は植民地体制の崩壊と100を超える主権国家の誕生が21世紀の今日、平和と社会進歩を促進する大きな力を発揮しはじめている」と書いています。この綱領の世界論の発展も私は実感をすることができました。この発展の一つの契機は、野党外交の生きた実践で豊かにされたことにあります。

 その一つが核兵器禁止条約の採択でした。大平さんと一緒に採択に立ちあいましたが、採決の瞬間に122という賛成の数が出ますと、わーっと大きな声が上がり拍手が続きました。だいたい国連総会はプロの外交官ですから、そんなざわざわしないものですけど、やがてみんなが立ち上がって握手をし始めて、そしてハグが長く長く続きました。大国の横暴をはねのけてこの条約を採択させたこのことに対する本当の感激的光景でした。その時に、会場の外で核大国などの大使が記者会見したんですよ、われわれ認めないと。それまでは、大国の横暴に色んな国々が外で記者会見したことがありましたが全く逆転した。国際社会の主役が交代した瞬間を目の当たりにしましたから、私はこの28大会の綱領改定は本当に自らの実感として感じることができました。その後、核兵器禁止条約は発効し、第1回締約国会議が成功するなど、まさに植民地から離脱した国々が大国の横暴をはねのけて世界で大きな力を発揮しています。

 ウクライナの問題でも。今確かにロシアの拒否権で安保理は十分な役割を発揮していません。しかし国連総会は違います。米ソ対立の下で、あのベトナム戦争の時ですら総会決議をあげることが出来なかった。しかしその後、こういう国々が大きな力を発揮する中でアフガニスタンへのロシアの侵略の時には、国連総会決議を上げました。その後、アメリカの横暴にも決議をあげ、ウクライナ問題でのロシア非難決議では141が賛成し過去最高でした。明らかに国連が変わり新しい力を発揮している。

 私たちはこの間、いわゆる軍事ブロックの対決、民主主義と専制との対決という、バイデン大統領の言う方向ではなくて、国連憲章と国際法を守れ、この一点で世界が団結することが大事だと訴えてきましたが、そのことが本当に大きな力だと実感しています。今朝の赤旗には昨日の、アジア政党会議のイスタンブール宣言でブロック政治を回避することの重要性を強調し、戦争よりも協調が大事だという言葉が盛り込まれたと書かれています。私たちがこの間、ウクライナ問題でも各国大使館を訪ね、訴えてきたことを志位委員長が会議で発言し、宣言の中にも盛り込まれたわけです。そういう点でも、本当に自己改革の努力による綱領改定が現実に力を発揮しています。 

(3) 国民との共同をつらぬいて――参院国対委員長として

●国会を取り巻いた「野党は共闘」の市民の声。福井県明通寺・ 中嶋哲演住職の言葉

 3つ目の特質は、この国民との共同ということであります。

 私が参院国対委員長として大きな変化を感じたのは、2011年の福島原発事故の後でありました。それまで、政党とは少し距離を置いていた市民団体のみなさんが、あの事故を見て本当に力を結集しなければ原発は止められないと各地で市民団体とのさまざまな共同が広がっていった。国会を多くの人々が取り囲むような大きな原発反対の集会が広がりました。

 そのうえで、2015年の安保法制反対のたたかいがあった。参議院本会議で採択が強行され成立させられたのは夜中の3時頃だと思います。議事堂から出て、議員会館前に行きますとそれでもまだたくさんの人が見守って残っていました。その場で私たちは、今日は成立させられたけど絶対にこれは廃止をするんだということをお互い誓いあいました。その日の午後に、それこそ一睡もせずに中央委員会総会が開かれました。その場で、安保法制を廃止をする新しい野党連合政府をつくろう、そのための共闘を進めようということを私たちは決定し、呼びかけました。最初は、他の党も、共産党は共闘に努力しているのによそが妨害したという宣伝に使うためではないかと冷ややかに見てた。しかし真剣にこの道しかないんだという努力をする中で信頼が広がり共闘がひろがってきました。あの「野党は共闘」の声はいつも、私の耳に残っています。

 もう一つ、私の耳に残っているのは、40年以上原発反対の運動の先頭に立ってこられた、福井県小浜市にある明通寺・ 中嶋哲演住職の言葉です。国宝の本堂と三重塔のある古刹の住職は日本共産党にこういう言葉を下さいました。「世の中が戦争に向かっていく時代、共産党は最後まで節を曲げずに戦争に反対しました。その伝統に私は敬服し、尊敬しています。ただその伝統にだけ甘んじてほしくない。一党一派だけでは戦争は止められなかった。その歴史を繰り返さない。今の憲法9条改悪を許さない運動も、原発再稼働を許さない運動も、歴史を痛切な教訓として力を合わせなければいけません」――不屈の歴史を持つ党だからこそ、共闘を前進のために力を尽くすのです。

 今、この2回の選挙の中で、共闘に恐怖感を抱いた自民、公明のさまざまな逆流があり、色んな困難があります。しかし、日本を変えるにはこの共闘しかありません。あらゆる分野で、運動広げて、そして強く大きな党をつくって、政治的躍進をつくることで、この市民と野党の共闘の再構築をはかっていく。そのためにみなさんと一緒に頑張っていきたい。100年に貫かれたこの3つの特質を私たちの今のたたかいに生かして、新しい前進を一緒にはかりましょう。どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

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