ホーム の中の 井上さとしさん語る(3)

 民青京大地区委員会を2年務めた後(1983年)、梅田勝衆院議員(旧京都1区)の地元秘書になりました。
 学生運動しか知らないからすべて新鮮です。秘書になったばかりの3月、重税反対統一行動で中小業者の皆さんが申告書を持って税務署までデモ行進するのを見て「こんな運動もあるのか」と驚きました。梅田さんが運輸委員であったこともあり国鉄民営化反対闘争は強く印象に残っています。

国会質問準備も

 地元秘書として質問準備に参加することもありました。全京都建築労働組合の山科支部の集いに行ったとき、アスベストによる建築労働者の健康被害が出されました。これは重要だと、梅田さんに問題点を調べるように言われ、国会質問も行われました。まだ、大きな社会問題になる前でしたが、その後、重大な被害が明らかになり国民的なたたかいになったことを考えると重要な第一歩になったと思っています。
 梅田議員の地元秘書を7年間務め、91~92年の1年余は「赤旗」政治部の記者も経験しました。いきなり国会取材団に配属され、政治改革や証券スキャンダルなど取材しました。当時、まだ議員でなかった志位さん(和夫書記局長、現委員長)の全国遊説について、26都道府県を回りました。文章を端的にまとめる力が身についたと思います。
 その後、京都に戻り政策分野の仕事をしていました。阪神大震災の時に「地震に強い街づくり」の政策を発表しましたが、その時に活断層など専門家にお話を伺ったことが今の原発問題の追及でも役立っています。

小選挙区で惜敗

 96年に、初めての小選挙区選挙が行われました。僕は、梅田さんの秘書として地元をよく知っていると、京都2区での立候補を要請されました。結果は、現職文部大臣に849票差、次点での惜敗。悔しかったですが、手ごたえも感じました。2000年にも京都2区から立候補したのですが、当選は民主党の前原誠司さんでした。
 候補者として、初めは演説も理屈ばかりでたどたどしかったと思います。「現場の苦労を自分のものに」と、民医連の病院で夜勤を一晩ご一緒させてもらったこともあります。
 経験を積む中で、自分の訴えで聞いている人の顔があがってきたり、涙する人がいたり。大事なのは、街の人の気持ちを分かることだと教えられました。
 01年に参院比例に回ったとき、近畿の半分と北陸・新潟が担当地域になりました。新潟の豪雪調査に初めて行って、想像を絶する雪とのたたかいを実感したのはこのときです。それぞれの地域で献身的に活動する党と地方議員の姿に触れて、感心し、勉強になりました。
(つづく)
(了)

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