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原爆なき世界への決意新たに還暦の誕生日

 今日、5月5日、60才の誕生日を迎えました。マルクスと同じ誕生日というのがちょっぴり自慢ですが、還暦を迎えるにあたり、被爆二世としての自らの原点を改めてかみしめようと連休のはじめに広島に帰ってきました。

 DSC_0761.JPG広島平和公園では2ヵ所を訪れました。一つは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館で開催中の企画展「星は見ている 全滅した広島一中一年生・父母の手記集」。同校はわが母校国泰寺高校の前身。建物疎開へ動員されていた先輩達は原爆に命を奪われました。

 我が子を失った遺族は追悼集をまとめ、『星は見ている』として出版されました。企画展では、それを題材に展示と映像が行われ、悲しみと無念と憤りがあふれていました。

広島に育ち、原爆の惨禍は小さい時から身近で聞いてきましたが、何か遠い話でした。それが高校1年の時、学校で映画「ひろしま」をみて、自分がいる同じ場所で先輩たちの若い命が奪われたことに身近に落ちてきたような衝撃をうけました。

 DSC_0763.JPG私は高校時代は応援団長を務め、いつもみんなで応援歌であり、広島一中の校歌であった「鯉城の夕べ」を大声で歌っていました。映画の中では、がれきの下敷きになった先輩たちがこの「鯉城の夕べ」を歌って励まし合いながら、だんだんと声が聞こえなくなり、1人だけになってしまう場面がありました。

 応援歌にこんな無念も込められている――当時、映画を見て、驚きました。企画展では、最後の一人になって生き残り、すでに他界された先輩が当時を語る映像もありました。映画の通りだったのです。

 家族に「鯉城の夕べ」を歌ってくれと頼み、それを聞きながら亡くなったという先輩のこと、被爆した我が子を探し回り、変わり果てた姿に衣類に書かれた名前でやっと確認できたこと――父母たちの手記の朗読に涙がとまりませんでした。  

DSC_0755.JPG もう一つは「平和の子の像」。2歳で被爆し、外傷はなかったのに小6の時に白血病と診断され、回復への願いを込めて折り鶴を折ながら翌年に亡くなった佐々木禎子さんをしのび、友人たちが平和願いをこめて呼びかけ、全国の募金で建立されたたもの。

 毎年、一千万羽もの折り鶴が捧げられているこの像。この日も多くの人々がこの像に祈りをささげていました。 実はその建立日は1958年5月5日で、私の誕生日と全く同じです。

 そのことに気づいたのは、2010年のNPT再検討会議で国連本部を訪れたときでした。「サダコの折り鶴」の語り部をされている若い女性僧侶にニューヨークでお会いした際に知りました。

 IMG_4557.JPG運命的なものを感じました。禎子さんの無念と、この像に込められた平和への思いを受け継ぐのはお前の使命だと突きつけられた思いでした。今回、改めて像の前で自分の使命を確認しました。

 若い命を一瞬の光で奪い、人間の形で死ぬことすら許さなかった原爆。長い間、原爆症で被爆者を苦しめ続ける原爆。この理不尽な核兵器をこの世からなくし、誰もが亡くなる瞬間まで人間らしく生きられる世の中にしたい――先輩たちの無念をかみしめつつ、「原爆の子の像」と一緒に還暦を迎え、決意を新たにした60歳の誕生日です。

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