米軍オスプレイの90mの超低空飛行訓練に日米政府が合意したことで、山添拓議員と共に防衛省・外務省から説明を受けました。
米海兵隊のMV22オスプレイが低空飛行訓練をする際に、これまでの日米合意では人口密集地以外の地域での「最低安全高度」を150mとする日本の航空法に準じ、500㌳(150m)としてきました。sところが今回の合意は9/27から10/18の間は、300㌳(90m)~500㌳の高度での訓練を実施するというものです。
日米地位協定の下で、日本の航空法は適用されませんが、これまでは在日米軍はそれと同一の高度規制を適用しているとしてきました。今回の合意は、公然と日本の航空法に反する超低空飛行訓練を行うことを合意したもので重大です。
日米合意では自衛隊と在日米軍が「各種の実践的な訓練の実施を通じ、即応性を向上させる必要性が高まって」いるとし、「人員・物資の輸送に当たり、敵のレーダーからの捕捉や対空火器からの攻撃を回避」することなどのために必要不可欠だとしています。海外での作戦をも想定したものに他なりません。
10/1~14に北海道で行われる日米共同訓練に沖縄の海兵隊のMV22が訓練移転で参加します。このMV22が、共同訓練とは別にこの超低空飛行訓練を行うとの説明でした。地域的限定はなく、どこでどのような訓練を行うかについても「米軍の運用に関わること」だとして明らかにされませんでした。
さらに、今後、同様な合意が繰り返されるのではないかとの問いについても否定しませんでした。これまでの合意を破る無法が常態化する恐れがあります。
しかも「沖縄の負担軽減」のための訓練移転だとしてきましたが、今回は従来沖縄でもできなかったはずの超低空訓練を公然と本土で行うものであり、「負担軽減」の名を借りた無法な訓練の拡大です。このような訓練は中止すべきです。
週明け月曜日からの臨時国会召集の前日のなる今日、衆院では細田議長の統一協会との関係、参院ではセクハラが報道された公明党の熊野議員が今朝、辞職届けを出したことめぐり議運理事会での協議がありました。結局、3日の所信表明演説を受け、5~7日に衆参で代表質問が行われることになりました。
昨年7月に発刊された『「黒い雨」訴訟ーなぜ、被爆者たちは切り捨てられたのか』の発刊記念講演会が開かれました。主催は京都被爆二世三世の会です。筆者は毎日新聞者の小山美砂さん。27歳です。
「黒い雨」問題での初めての通史であり今の課題を明らかにした本を若い小山さんが出してくれたことは驚きであり、感謝です。一時間あまりの講演の後、京都の「会」や共催である神奈川県の二世三世のメンバーからお祝いと感謝の言葉や感想が述べられました。
私も最後に時間をいただき、この問題で厚生労働省要請をしたことについて発言しました。一つは国の責任で周知・広報すること。国は新たな原爆手帳の対象者は13000人程度してきましたが、申請はまだ3500程度です。知らされていません。
もう一つは審査の遅れ。まだ申請者のうち認定された人は1200人強。昨年11月に申請しながらいまだに認定されず、亡くなられた申請者は33人に及びます。広島県・市などが申請のために増員する場合に全額国が負担することを検討すると厚労省はいい、実際、広島県は9月1日から担当者を3人増やしました。さらに、強化することが必要です。
党京都府委員会で府委員会三役の皆さんらと、穀田、倉林両議員と私で会議。統一地方選、次の国政選挙勝利へ意見交換をしました。
毎日新聞に「『黒い雨』救済制度 広島県、審査迅速化へ担当者3人増員」の見出しの記事。今日から担当者を3人増やし19人にするとのこと。先日、仁比議員や大平元衆院議員らとともに厚労省に要請をしたことです。全額、国の負担によるもの。一歩前進です。
記事によれば、審査に時間がかかっており、審査を待たずして33人の申請者が亡くなったとのこと。広島市や他県でも担当者を増やして迅速な審査を行うとともに、国の責任で救済制度を周知することが必要です。
今日は明後日に講師を担当する京都の民青同盟の日本共産党綱領学習会の準備が中心でした。
13~15日は広島県三次市に墓参りに帰りました。GWに帰った際は、足を痛めていて家の中を歩くのも大変だった母もずいぶんよくなり、ご近所のお店まで歩いて実に久しぶりに外食をしました。昔は、避暑に帰った田舎ですが、最近は、同じような猛暑です。汗をかきながらの墓参りと少しばかりの家の周りの草刈り。
三次市内の本通りにある「辻村寿三郎人形館」にはじめて行きました。旧満州で生まれ終戦一年前に広島に引き上げ、原爆投下一か月前に広島市内から三次に移り、22歳で上京した寿三郎。私たちの年代では、出世作となった「新八犬伝」の人形が強く印象に残っています。
館内には真田十勇士をはじめとした人形や衣装とともに、「原点」とされる作品「ヒシマより心を込めて」が展示されていました。小学校五年生の時のみっちゃんという同級生とそのお兄ちゃんの人形。二人は被爆し、一年後亡くなりました。三次に転居していなければ寿三郎も被爆していたことでしょう。
「人形作りを始めてまもないころの作品です。私の原点なんです」という寿三郎の言葉が添えてありました。